校正者のひとりごと

校正者のひとりごと

「校正」の誤解

校正(校閲も含む)という仕事は、テレビドラマなどのおかげで世の中に広まってきたようだが、実際何をするのかは、ほとんど知られていないようである。
仕事の募集などでは、「ライティング」や「編集」と勘違いしている場合が多い。
「校正」は、書いてあるものを点検する仕事であり、「編集」の一部である。「ライティング」は、文章を書く仕事である。
校正者は、指摘はするが、ライティングはしないし、修正もしない。修正するという判断は、ライターや編集者がする。
たとえれば健康診断のみをするようなもので、悪いところを発見しても、治療はできない。
とてももどかしい仕事なのである。

校正職は、AIで滅ぶか

AIの広がりで、校正は、近い将来消えそうな職種にランキングしそうだ。
確かに、照合はAIに任せられるかもしれない。誤字、脱字、衍字も、そこそこなくしてくれるだろう。表記もきれいに統一して、文法的におかしなところも直してくれるだろう。
でも、校正という仕事は、根強く生き残っていくはずだ。
校正者は原稿に向かって仕事をしている。しかし、その原稿の先にいるのは、著者や編集者だ。人間に向けて、伝えるために書いている。読み手の立場になったり、書き手の意図を汲んだりすることもある。そこに最も必要なのは、コミュニケーションの力である。
これは人間でなくてはできない仕事だ。

辞書を買い替える

広辞苑が第七版になったのはつい最近、と思っていたら、5年以上もたっていた。
大きく言葉の意味が変わるわけでもないし、と、ついついそのままにしていた電子辞書だが(校正者として失格?)、今さらながら、買い替えることにした。
きっかけは「敷居が高い」。
この慣用句は、もともと「不義理などでその人の家に入りにくい」という意味だが、そのように使う人は今はほとんどいない。高級なお店など「自分には分不相応な場所」に対してよく使われる。それを、校正の際、誤用として指摘するか否か、いつも悩んできた。
が、ついにそれから解放される!
広辞苑第七版で、「敷居が高い」の意味として、「高級だったり格が高かったり思えて、その家・店に入りにくい」が追記されていたのだ。もちろん、他の辞書ではとっくに許容されているかもしれないし、広辞苑がすべてではないけれど、これで堂々とスルーできる。(そもそも気づくのが遅いけれど。)
というわけで買い替えた辞書は、十数年前のものと比べて、軽量、低価格。そこにも時代の動きを感じた。

校正の道具選び

校正という仕事は、「はっきり書き込める」こともスキルのひとつである。そのための道具選びも怠ってはいけない。ペンがその最たるものだ。
雑誌や情報誌は、写真だらけである。デザインも凝っていて、背景が黒や赤の場合もある。校正作業は、その上に文字やら記号やらを書き込むことになる。
濃い色の上には黒や赤色で書いても見えないので、白っぽい色の出るペンが必要だ。今でこそ白のペンもたくさんあるが、5年くらい前まではあまり見かけなくて、やっと見つけても、何回か書くとインクがかたまってしまうので困っていた。
今、重宝しているのは、パイロットのJuice(5mm)だ。白は、少し色が薄いが、かたまることもなくスムーズに書ける。蛍光のピンクも、濃い色の上で発色するので、赤ペンの代わりになる。
デジタルの時代にこういう苦労をしているのは、校正者だけだろうか。

校正の道具選び その2

消しゴムをたくさん使う仕事ランキングがあれば、間違いなく校正は上位に入るだろう。とにかく書いては消す。消しては書く。
校正者は、消しゴム選びにも余念がない。よく消えるのはもちろん、消しくずがまとまるとか、折れにくいとか、今はさまざまなメリットを謳った商品がたくさんあるので、文房具売り場で目移りする。
最近いいかなと思っているのは、「トンボタフ」。「折れにくい」が売りである。ふつうはケースの縁にぶつかって割れ目ができ、やがて折れる。割れが大きくなると使いにくいので、その部分はちぎってしまうしかない。カッターできれいにカットすればいいのだろうが、めんどうな仕事をしているときに限って割れるので、無造作にちぎることになる。
トンボタフは、今のところ無事だ。かたいので、広範囲には、ごしごしできない。消え方は、まあまあ。消しくずはあまりまとまらない。
「よく消える」「折れない」「力がいらない」「消しくずがまとまる」など、全部網羅できる消しゴムはできないのだろうか。そんなことを考えるのもまた、校正者くらいだろう。
しかしながら、今時そんなに需要があるとも思えない消しゴムの種類が増えているのは、なぜなのだろう。

追記
「トンボタフ」は、最後の最後にふたつに割れたが、ほぼストレスなく使えた。

背景の外国語

校正の立場から、ゲラを作っている皆様(デザイナーや編集者)に要求したいことは、山ほどあるのだが(逆もそうだろうけれど)、まずは、外国語をむやみにデザインに使うなと言いたい。
雑誌に多いのが、背景にうすーい文字で、HAPPYとか、HELLOとか。それも1ページにひとつやふたつではない。読者は誰も読んじゃいないだろうが、私たちには見落としは許されない。単語を辞書で逐一確認しなければならない。しかも、半分くらいはスペルが間違っている。時間がかかることこの上ない。
校正料を時間で請求するシステムの場合は、その時間分もしっかり計算されるので、発注する方は、ご注意を。

黄色い線

「黄色い線の内側に下がってお待ちください」という駅のアナウンスは、ずっと疑問だった。たぶん学生のころから気になっていたと思う。これは線にしては太すぎないか。線でなければ何か。呼び名がないから仕方ないのか。高いところから見れば線だから、まあいいのだろうか、などと。
ところが、最近「黄色い点字ブロックの内側に……」というアナウンスをよく聞く。「線」では変だということをやっとわかってくれたか!という気分であるが、そこにはどういう背景があったのだろうか。点字ブロックを強調する意図か、「線」ではわかりにくいと苦情がきたのか。
いずれにしても「黄色いブロックの」と聞くたびに、「よしよし。それでいい」とほくそえんでいる。

旅行は「非日常」か「日常」か

雑誌で使われる言葉にも、ブームがある。
旅行関連の記事で、最近目につくのは「非日常」である。「非日常」=「旅行」ということらしく、「日常」から抜け出して旅に出ましょう、という誘い文句が続く。
みんなそんなに日常がイヤなのだろうか。仕事や家事だけが日常ではない。家族と過ごす時間、友だちとおしゃべりするのも日常。そんな毎日が人生の基盤であり、幸せもそこにあるものだろう。
などと思っていたら、今度は、旅先で「暮らすように過ごす」という表現を見かけるようになった。「暮らす」のは毎日の生活、すなわち「日常」だろう。「非日常」で「日常のように過ごす」のだそうだ。近頃の旅は難しい。

「誤植」という言葉

植字の時代はとっくに終わっているのに、書籍などに間違いがあると、今でも「誤植」という。
今はほとんどの場合、パソコンなどで入力しているので、正しくは「誤入力」または「誤変換」である。しかも、手書きの原稿をオペレーターが入力するということも減っている。文字を並べる人が間違えたのではなく、ライターや編集者、つまり原稿を考える人が間違えて入力しているのである。「誤植」はそぐわない。
校正のやりかたも、そろそろそうしたことを考慮するべきだと思う。かつて植字は一字ずつ並べていたから、校正も一字ずつ直す指示を入れる必要があったのだろう。だが入力は、たいてい単語単位で変換する。校正も、場合によっては単語単位で赤字を入れたほうが、修正の際のリスクが減るのではないか。漢字は、一字単位の変換では探す字がなかなか出てこない。作業効率的にも、やりかたを変えていく必要があるだろう。

「不完全」のすすめ

校正者というと、細かく、神経質で、完璧主義の人が多いと思われるかもしれないが、実は意外と性格的にはおおざっぱな人が多い。
校正は、きりがない作業である。表記統一ひとつとっても相当悩む。さらに、事実確認はどこまでするか、根拠とするのにこのサイトは信用できるのか。言葉の使い方はこれでいいのか。さらに「見落としがないだろうか」と気になってしまったら、永遠に終わらない。どこかで割り切って、「不完全」で終わらせなくてはいけないのだ。
しかも、校正者が入れた指摘は、最終的に修正されるとは限らない。それを採用するかどうかを決めるのはクライアント(著者、編集者やディレクター)だからである。印刷物になったものを目にして、「指摘したのに直っていない……」と愕然とすることも多々ある。
そして、どんなベテランでも見落としはする。人間である以上、これはどうにもならない。「あんなに何度も見たのに……」と落ち込んだことのない校正者はいないだろう。
完璧を目指す人には、耐えられないことばかりだ。
もちろん、おおざっぱな校正をしていたら、仕事はもらえなくなる。見る目は細かく、でも「不完全」を受け入れる。そういうスタンスが必要なのだ。

「校正者のひとりごと 2」 https://diary.summary-s.online/%e6%a0%a1%e6%ad%a3%e8%80%85%e3%81%ae%e3%81%b2%e3%81%a8%e3%82%8a%e3%81%94%e3%81%a8-2/
に続く

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