校正者のひとりごと 2

校正者のひとりごと 2

2024.3.6   「おはよう」は何時まで?

校正では時間の妥当性もチェックする。原稿に「13時に朝食を食べた」とあれば、当然「朝食ではなく、昼食では?」と指摘する。
そういうことが身についているせいか、校正の職場ではおもしろいことが起こる。
出社して「おはようございます」と挨拶すると、職場のみなさんは、机に向かいながらも「おはようございます」とはっきり挨拶を返してくれる。これは会社の普通の情景だ。校正プロダクションでも同様である。
しかし正午を越えると様子が変わってくる。
正午を少しまわって出社し、「おはようございます」と挨拶すると、みなさんの反応は「お……う…ざいます…」と、はぎれが悪くなる。さらに遅くなり13時を過ぎて「おはようございます」と入って行くと、「…………す」と、ほぼ聞き取れなくなる。
遅く出社したから挨拶してくれないわけではない。その証拠に、13時に「こんにちは」と入っていけば、「こんにちは」とはっきり返ってくる。
つまり、昼を過ぎたら「おはよう」はそぐわないので、みなさん言葉に詰まっているのである。しかし挨拶を返さないわけにもいかず、「…………す」になってしまうというわけだ。おそらく。

2024.3.20  信じる者は救われない 

人間関係でも仕事でも、素直さというのは大切だが、校正においては、何でも信じてしまうという意味での「素直さ」は仇になる。
仕事は、ゲラに書かれた一字一句を疑わないと始まらない。そして内容の真偽も調べなければならない。
その調べ物をするインターネットの記事に至っては、ウソだらけだ。人名の漢字、番地の数字、社名の表記、西暦と元号、国名のカタカナ、アルファベットのスペル、計算……。「日本一」だの「世界唯一」などと堂々と書かれていても、そのほとんどは根拠がない。常に疑いの目で見て、確認しなければならない。
そんなにしっかり見たはずなのに、最後に念のためにとゲラをさらっと読んだら、致命的な誤字の見落としに気づき、心臓が止まりそうになることもしばしば。
いちばん信じてはいけないのは自分の目だということを、そこで痛感する。

2024.4.19  頼むからコピペして!

今でも、手書きの原稿とゲラを照合する「ザ・校正」というものはある。そういうものは手入力しているのがわかっているので、校正では一文字ずつ念入りに文字を追う。
だが、雑誌などの情報はWebサイトなどからコピペしていることがほとんどだろう。特にURLや、住所、電話番号などの「データ」は、効率を考えたらコピペするはずである。
校正の際、もちろんしっかりサイトと照合はするが、正直言って、長いURLを一文字ずつ見てはいない。ある程度かたまりでざっと見ていることが多い。
が、まれに、URLの間違い、たとえばlがrになっていたり、画数の多い漢字、たとえば鳶が鷲になっていたりすることがある。つまり誰かが手入力しているのだ。
こちらはコピペだと思って油断しているので、ドキッとする。
なにか事情があったのだろうが、心臓に悪い。仕事なんだから油断するなと言われれば返す言葉がないが、誤字のリスクを減らしたいのなら、できる限りコピペすべきだ。せめてURLは。
もっとも、読者がURLを一文字ずつ入力してサイトを開くとは思えないが……。

2024.5.26  「写真」は「イメージ」ではありません

「写真はイメージです」は、校正中にも時々お目にかかる言葉である。
もともとは、菓子のパッケージなどで、味をイメージさせる写真を使っているときに見かけるものだった。
今は雑誌でもよく見る。
旅行雑誌でも、その場所をちゃんと撮影したものだろうに、「写真はイメージです」と書かれていたりする。
「この写真と実際とでは景色が違ったじゃないか!」という、読者のクレームを避けたいのだろう。いつもまったく同じ景色であるはずはないのに。
クレームに苦慮している出版社のお気持ちはわかるが、その場所を撮ったことは真実なのだから、「イメージ」というのはどうしても引っかかる。もっといい表現はないのだろうか。
最近買ったハーゲンダッツのカップを見たら、明らかにイメージ写真(イラスト?)を使っていたが、「イメージです」という表記は見当たらなかった。何かスッキリした。

2024.6.13  大きいものは見えない?

タイトルや見出しなど大きな文字の間違いは見落としやすい、というのは校正者の常識である。
それだけ細かいところばかりに集中してしまうということだろう。
最近、買い物をしてお釣りを取り忘れそうになる、ということが重なった。忘れるのは決まってお札で、小銭は絶対に忘れない。小銭とお札が別々に出てくるというシステムも原因かもしれないが、細かいところばかり見ているのは、普段も変わらないようだ。
これは校正者だけなのか。それとも人間はそういうものなのか。
単に、年齢によるもの、という話もある。

2024.8.5  新しい本

「新刊」というと、すべてが新しく書かれた本だと思ってしまうが、昨今そんなことはない。
少しだけ既刊に追記し、見栄えを変えて、「新刊」として発刊しなおしているものは結構多い。
一度は完成したものをベースにしているので、校正としてはラクだ(誤字は、保護色の昆虫のように紛れ込んでいるので、油断はできないが)。
しかし読んでいくと、なんだか新しくないな、ということに気づく。
どんなに新しい情報を加えていても、古い情報はほぼそのままなので、とってつけたような印象になってしまうのだ。
特に、コロナ禍以前とそれ以降では、かなり世間の感覚が変わったので、古さがはっきり出てしまう。
また、多様性の視点も刻々と変化している。
校正の感覚としても、「女性だからダイエットに興味があるだろう」とか「女性だから若く見られたいだろう」という見方に対し、以前は何とも思わなかったが、今は「男性だって同じではないか」と、違和感を覚える。
表面だけを変えて「新刊」を名乗るのは難しい時代だ。

2024.8.24  老眼鏡の話

新聞でも本でも、今は文字はそこそこ大きくなっているし、スマホもパソコンも文字を拡大できる。生活のなかでは、初期の老眼で不自由とは思わないだろうし、老眼に気づくこともないかもしれない。
「ちゃんと見えてるし、老眼鏡なんてまだまだ」と言う同世代の多いこと。
しかし、校正者はそうはいかない。誰も読まないような小さい字を見たり、「ば」と「ぱ」や、「祟」と「崇」などを見分けなければならない。なにより、一日中、文字を追っているのだ。「見えにくさ」には敏感である。
試しに「リーディンググラス」(要は老眼鏡)をはじめて使ってみたとき、目のまわりがふわっとゆるむような、「ラク~」という感覚を味わった。
その頃は老眼鏡なしでも仕事は可能だった。でも実は目はラクじゃなかったのだ。無理をさせていたのである。
それ以来、老眼鏡は積極的に使うことにした。だって、ラクなんだから。
これは目を酷使しない人にはいくら言っても伝わらない。しかし、同業者の同世代からは、大きく頷いてもらえる。
今は老眼鏡も進化して、驚くほど種類がある。「老眼になって不便」と嘆くより、ラクに見えるようになることに感謝だ。

2024.9.17  灯台下暗し

「たたずむ」の意味は、人がじっとその場に立っていることである。
「広辞苑」には「しばらくその場に立っている。立ちどまる。」とある。主語はない。しかし、動かないものが「しばらく」その場に立っていることはあり得ないので、これは生物が主語である。
ところが、最近は建物に「たたずむ」が使われることが多い。
ぽつんと立っている小さな家なら、なんとなくニュアンスはわかる。
しかし、大きな敷地を持つリゾートホテルや、ビルのテナントのカフェなどに「たたずむ」を使うのは、どう考えてもそぐわない。それを校正でも指摘したいのだが、根拠が弱い。
広辞苑を根拠に「生物以外はNG」と言ってしまえればいいのだが、それは範囲が狭すぎる気がする。
職場の他の辞書をあたっても広辞苑とほとんど変わらないし、webで検索しても、根拠となりそうなものはヒットしない。
しばらく経ってから、手持ちの電子辞書に「明鏡国語辞典」も入っていたことを思い出す。
一応確認したところ、なんと!「ある場所に建物・彫像・樹木などが(ぽつんと)立って存在する」と、ちゃんと書いてあるではないか!
まさに、灯台下暗し。電子辞書では広辞苑ばかり見ていて、明鏡があることをすっかり忘れていた。
これで明日から、堂々と「たたずむ」を語れる。

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